測量・地図ミニ人物伝:近藤重蔵

「測量・地図ミニ人物伝」 

 

近藤重蔵
(1771-1829)

 

 近藤は、幕府与力の子として江戸駒込で生まれました。少年時代は、湯島聖堂(ゆしませいどう)で行われた学問の試験で、一番の成績(せいせき)をとるほどの秀才だったといいます。

 

 25歳になって、幕府に蝦夷地(えぞち)の警備(けいび)をしっかりしなければと意見をいって、蝦夷地に行き、国後島(くなしりとう)や択捉島(えとろふとう)を探検しました。

 

 1802年には、択捉島が日本の領土であることを示すため、島に木柱を立てました。その後も5回にわたって蝦夷(えぞ)・樺太(からふと)・千島を探検し、道路の建設や航路(こうろ)の開拓に力を入れ、北方地域の地図も作成しました。また、そのころは原始林におおわれていたと思われる札幌付近の土地を見て、蝦夷地の中心としてふさわしいところだと幕府に、意見をいったといわれています。

 

 蝦夷地探検ののちは、学問にすぐれているなどのことから、書物奉行などになっていましたが、子供が殺人事件を起こしたことで、今の滋賀県(しがけん)の大溝藩の牢(ろう)にいれられました。その間も、滋賀の植物図鑑を作るなどの牢生活を送りましたが、恵まれない生活だったといわれます。

 

 罪をおかした息子は、八丈島に島流しになり、罪(つみ)がゆるされたあとは、父の墓をたびたびおとずれて、反省し、八丈島の教育につくしたということです。